会社帰りに渋谷の東急の城のBunkamuraでハイカルチャーなアフターファイブを過ごした.
もうじき会期が終了してしまうポーラ美術館所蔵の近代フランス絵画展だ.
あるいは吾郎さんの絵画のチャンネルもしばしば見ている.
それらの知識や感想とも有機的に関連させて語れればと思う.
とはいえ,アフターファイブの宿命として閉館時間6時との時間との勝負の側面もあり,あまりじっくりと楽しむことは叶わなかった.
しかし休日は休日で混むと相場が決まっているので難しいところだ.
また期待を裏切らずいい展示だったし金銭的に余裕に溢れているので,図録も買おうと思ったのだが,決済がVisaとMasterと現金のみで,最小限の現金とJCBしかない私は買えなかった...
ひとまず目録を見つつ振り返る.
1章は主にモネとルノワールから成る.
各所の広告にも用いられていたルノワールの「レースの帽子の少女」はやはり美しかった.
これまでは美術館では物理的に近視眼的に見てしまうことが多かったが,人も比較的疎らだったこともあり,距離を置いた味わいの変化も楽しんだ.
近くで見れば,レースの白を構成する控えめながら鮮やかな配色に違和感もあるが,遠目に見れば,それがいい感じにボヤケて分散されて絶妙な色味を構成する.
これが速い筆致を伴う印象派の要素の妙技だろうか.
この点は彼以外の他の作品にも広く感じられる印象だった.
実際に存在しないはずの彩度が局部に宿る妙技だ.
あるいはそれが本来の世界で,ただ私あるいは一般の人の目がそれらの鮮やかさを受け入れられないのだろうか.
身体的,脳科学的にもありうる仮説にも思えてきた.
このあたりはゴッホの色の実験とも近いところで,現代の美術色彩にも通じそうで深淵は深そうだ.
ルノアールは晩年の古典回帰でエッジがやや強調されるようになったものもあった.
これらを見比べるのも面白かった.
モネの散歩は妻が影にいる構図だが,今日主題にスポットライトを当てる構図とは逆なのが目を引くし,明暗の強調は共通であるから引き立つ.
散歩している草原の明るさが,主題の妻に負けず映えるのも巧い.
アルジャントゥイユは先進的構図を感じたが,解説に依れば浮世絵の影響だとかで,言われてみれば似ている.
2章にはゴッホも1点あった.
この「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」というのは,橋という主題がどストレートであることに加え,他の作品や年代と比べてもひときわ原色的で鮮やかで目を引いた.
しかし点描的な代表作と言えるだろう,シニャックの「オーセールの橋」やクロスの「森の風景」も負けず劣らずだった.
点描において,暗い部分はやはり寒色が主,明るい部分は暖色が主となる.
中間は紫になる.
それにより現実と異なり紫の色味が強い.
三原色に則って考えれば,黄色の色味が抜けた虚構が表されていると言える.
そうした技術的要因により,パステルパープルがメルヘンな雰囲気を醸し出す.
特に森の風景はその主題もあり,妖精や魔法を感じさせる.
しかし紫によりダークで,点描のモザイクがカオスさも同居させる.
上記の芸術からの脱却が様々試みられるが,写実的表現にはある意味限界が出てきたのか,かなり先進的でアバンギャルドな印象がある.
印象派の瞬間を重んじるところが,スケッチ的なものが増えてさらに増えた印象を与える.
技術的な波も着実に押し寄せている.
前後してカメラが開発され,そうした一瞬を記述したプティジャン「髪をすく裸婦」やマティスの「襟巻きの女」を筆頭に各作品のテキスタイルが挙げられる.
この前にもこれらの萌芽はあり,ルノアールの時代から都市化や工業化:工場も描かれていた.
スケッチ的だったりピカソも構図が複雑であるが,やはり裏にある守破離の守の匂いもいい意味で消せていない.
ただ雑なのではなく,規則的で上品な派手さが介在している.
4章はさらに後年だ.こうして見ると,見学者としてもお腹いっぱいで,次世代の苦悩が素人ながら簡単に伺える.
ユトリロは3章の時代の反動か全体的にかなり厚塗りになっている.
「シャップ通り」は灰色の曇天も相まって,かなり重苦しい雰囲気が表されている.
しかし印象派と異なり,線は細く写実的だ.
あるいは逆にローランサンやパスキンは,油絵でありながらかなり淡めの仕上がりとし,一見水彩画かのような作品だった.
特に前者は女性の目を通した作品だからか,独自の儚さ,エモさとエロさがあってよかった.
キスリングの「花」は一筆で書いた自然的な構成との整合性がしっかりしつつ,絵の具が厚めで強さを感じさせる.
最後は閉館時間になってしまい正直あまり見られなかった.
またお土産も図録は買えなかったが,なけなしの現金でルノアールの絵柄の缶のドラジェを買っていった.