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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

自己エスノグラフィ

B自分にとってのユートピアを自己エスノグラフィ(auto-ethnography)として論述せよ。その際、当該ユートピアの両義性についても論評を加えること。

 

自己エスノグラフィとして,この機会に就活の一環でもある自己分析と関連付けて論じたい.

まずこれまでの人生を振り返って,当時楽しめていたのは中学生時代の環境だ.幼少期も楽しかった時期だが自我が著しく不足していると考え除外する.ただこの中学時代も振り返れば未熟だった.詳細は後述する.私は小学校から中学校と公立校に通った.中学は学区が若干変わったため,対応して若干の人の変化があったが,概ね友人環境は同等だった.そのため排他的で閉鎖的な環境だった.そこで利己的に振舞っていた.そのため自身にとっては居心地がよく,ユートピアとも言えるような状況だったと感じられる.自由な立場でありながら責任を負うことがなかったのもよかった.ただ社会的には歪みしかない.そのためこれを通して自身の性格といった内面が歪んだ点は否定できない.そして両義性としてタブーであるいじめの存在が挙げられる.ゆえに周りはディストピアと言えるだろう.特にいじめられっ子,先生,親への負担の転嫁は省みる点だ.このユートピアは,こうした他人のディストピアによって支えられていたというのは皮肉だ.また彼ら以外の同級生の友人の多くが,いわば人格破綻者という環境で,怪物の温床となっていたと考察できる.そのため当時は満足だったが,振り返ったときにジレンマを強く感じる.

これは高校生立場の環境の影響も大きい.というのも自身は進学によって,バカな周囲の同級生との関係を断絶できることに期待していた.いわゆる高校生デビューだ.中学生から学生モノのアニメなどもよく視聴するようになり,期待はバブルとなっていた.

しかし現実は非常だった.立場は逆転した.簡単に言えばいじめられ側となったわけである.そして手法は陰湿となった.さらに寮生活を行っており,これが温床となり拍車をかけていたように思う.上下の距離が近くなった点もあるだろう.私の自由奔放で利己的な振舞いは先輩らにとって不快なものだった.それだけならよかったが私が致命的なミスを起こしたためにダムが決壊した.先輩の命令か無視が貫かれるようになった.停学・停寮を受けたために,そのさなか何があったか定かではない.これを受け学校での立場も面白いものではなかったし卑屈になった.ただ長い人生を見つめなおすと,これこそが非常に良い経験だったと思う.いじめを肯定的に捉える点は卑屈さの残る点かもしれないが,これを通し視座が高まり視野が広がった.もし高校生を内向的な社会と自身のシャイな性格との抜群な相性で,ユートピアとして気ままに過ごせていたなら,それはさぞ快適なものだっただろうが,本質的には子供のままで未熟に卒業しただろう.ブラック企業の経営者のようかもしれないが,厳しい環境でこそ人間は磨かれると思う.そしてこれは,その立場を経験したものにしか感じられず,また発信を社会的に許されないような事柄とも考えられる.またこの苦しい立場にいながらも,最低限に接しながら認めてくれた先生らにも感謝する.いじめの対応の是非はさておいて.

現在は大学として知見が広がったが,今では社会的息苦しさを感じている.そしてこれを考察すると,マズローの5大欲求に通ずると考えられる.簡単にまとめると小学生までに安全欲求,中学で社会的欲求,高校で承認欲求,大学で自己実現欲求に至っていったと考察できる.そして今ではこの自己実現欲求が引っかかっている.大学院生として年齢も重ねてきて,ビジネスや社会での実現がしたい.アカデミックもその側面があるものの研究自体が難しい点が課題だ.アウトプットの欲求としてブログの執筆を始めてみた.文章化することで自己での認識の整理にも繋がるので面白く続けられているが,PVが少なく自己満足に過ぎないのではとも思う.

また社会課題とそれに対するアイデアは浮かび起業も検討したいところだが,仲間がおらず,さらに収益モデルも未熟で社会の複雑さのジレンマに嵌っている.同様に就活もジレンマがある.自己実現としては,ベンチャーを経験したいが,大企業の安定感や名誉に惹かれている.ベンチャーは裁量が大きい傾向なために自由と共に責任も拡張される.これは責任と自由の背反性のジレンマが,未だ残っているためと考察できる.生理的・本能的な回帰・カルマとも捉えられる.であれば,根本的に中学校成長していないとすら考えられる.しかしこの自己を振り返られる環境や自覚こそが,子供を卒業した新たなステージとしてユートピアと代替して呼称できるだろう.

そして隣の芝が青く見え自身にとってユートピアではないかと推測していたところがある.具体的には前述と同様の中学生から見た高校,高校生から見た大学,大学生から見た会社.過程を進めるごとに高いヒエラルキーへ移ったからか周囲の人間性も高まり,勉強などの環境も整い憧れが増す.

まとめとして,ユートピアの本来的定義からは外れるが,自身の矛盾への理解として,完全な(全員が幸福な環境の)ユートピアは定義できない.そこは他のディストピアから成り立つものだと捉えられ,逆もまた然りだ.