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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

雑読書感想文

今週のお題「読書の秋」

 

異動に伴い出社するようになって,通勤時の電車の中で非常によく読書をするようになった。

また会社の脇に図書館のカウンターがあり,その都内のサービスも便利で頻用している。

地元の近郊の図書館よりも,やはり23区の方が蔵書も豊かなので。

 

このところ読書の感想やまとめが滞りインプットに徹していたので今回のアウトプットでバランスをとりたい。

というものの,やはり1時間以上かけて通勤してしまうと,その読書時間はとれても,それ以外にあまり自宅で時間が使いにくい。

起床時間もどうしても早くなってしまうし。

 

端的に言って様々なジャンルを読んだ。

  1. ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
  2. J・D・サリンジャーライ麦畑でつかまえて
  3. 加藤陽子 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  4. 外山滋比古『思考の整理学』
  5. 坂口安吾堕落論
  6. 池田潔『自由と規律』
  7. 佐藤淑子『イギリスのいい子日本のいい子:自己主張とがまんの教育学』
  8. レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』,『建築論』
  9. エズラ・F・ヴォーゲルジャパン・アズ・ナンバーワン-それからどうなった』
  10. 恩田陸夜のピクニック
  11. 吉川トリコマリー・アントワネットの日記ⅠⅡ』
  12. 柳瀬博一『国道16号線:「日本」を創った道路』
  13. 東京工業大学エンジニアリングデザインプロジェクト『エンジニアのためのデザイン思考入門』

ここで,これらの数値を以下の文献番号と代えさせていただく。

 

ただこうして振り返ってみても感じられるのは,現代小説の読みやすさを理解しつつも,堅苦しくて古臭い方が好きだということだ。

ことこういうジャンルに限っては,案外保守的なのかもしれない。

個人的には温故知新ということで正当化しているが。

 

現代と言えば,原作小説は未読だが,ハーモニーを上梓した伊藤計劃には改めて感動した。これはまた別でまとめたい。

 

3の加藤は歴史の復習として面白い。歴史は戦争に限らずこうした面白さがあることを今となっては強く実感するものの,学生のうちはなかなか気づけない。当時にこれを読めていなかったことが悔やまれる。また後述する著作からも,日本の教育制度の根本的問題を感じてしまうところもある。

 

日本の戦争の歴史は,主に最後の第二次世界大戦に敗戦したことにより,かなりネガティブに語られ,そこで当事者の責任を問うような論調も多い印象だ。

しかし当時の状況に寄り添って,当事者意識を持って考えてみると,苦悩と妥協の末の決断も見えてくる。また上層部などの責任者が矢面に立つわけだが,国内世論のイデオロギーによる民衆の責任も,今日の国民の1人として自覚しておく必要もあるのではないか。

日独の接近は中国とソ連の接近をもたらす。その裏面には、共産主義をどうするかというイデオロギー地政学があった。持久戦争を本当のところで戦えない国であるドイツと日本であるからこそ、アジアとヨーロッパの二カ所からソ連を同時に牽制しようと考える。アジアの戦争である日中戦争第二次世界大戦の一部になってゆくのは、このような地政学があったからです。

 

なにはともあれ,文は長めで読書週間のない人には重いかもしれないが,義務教育を振り返りながら平易な語り口なので,本書内で受け手である高校生をはじめ,比較的全年齢に勧めやすい。

 

 

確か7の佐藤の中で6の池田に関する言及があり,芋づる式に読んだものと記憶している。名著は連鎖するのが面白いが,ここのところそういうことばかりで,若干記憶が混乱しているところでもある。ただいずれもイギリスの文化や教育という共通点がある。

以下は6からの引用。

前途に落着の見透しがつき、それ以後の経営が個人の力に及ばないことが判る時期に達すると、一方から社会の輿論が起って国家を動かし、その手にこれを引き継がせるのである。政府が先に手をつけて国民に押しつけ、結果が思わしくないとたちまちこれを投げてしまうことの多い、わが国の行き方の全く逆といえよう。

イギリス教育史のこの混乱に際して、当時、無干渉主義を信奉するマンチェスター自由主義者の発言権の大きかった政府は、空しくこれを傍観して為すところなかった。

 

よく冷静と評せられて、その実イギリス人ほど感情の強い国民はない。ディケンズやトロラップの小説のあるものには、彼等の強い喜び、彼等の強い怒りが、火と燃える様相のままで描かれている。ただ、彼等は赤裸の感情を人に見られることを厭い、自己の感情のプライヴェシを飽くまで固守する。これを固守すればこそ、当然、彼等の信条とする「他に与え且つ己に作る」精神に基づいて、他人の感情のプライヴェシーをも尊重する。己の激動した感情を露出することは、これによって他の感情の平静を掻き乱すことが多い。彼等の間に、感情の抑制を美徳としその誇張を不躾とする戒律の生れた所以である。彼等が日常の会話に、過小形容を尊び、最大級形容詞の使用を節約し、劇、詩、小説に比較的悲劇を悦ばず、俳優の大袈裟な演技を忌むのは、いずれもこの理由による。

 

読みやすさという点では,やはり現代の文章で現代文化との比較もしやすい池田がおすすめだ。しかし古く硬めな文章ではあるものの,佐藤の方が本質的な評価に優れる印象だ。

後半の引用にもあるが,イギリスは案外内向的な側面がある。これは佐藤でも同様の記述がある。日英米を比較し,米のみは自己主張が激しいことの同意を得る。そこで日英の類似性が言語を理由とせずあることとなるが,しかし小分類としての差異がある。要は自分を殺すか殺さないかだ。書名の自己主張とがまんという要素もここに凝縮される。日本人は必要な場面においても,異常に自身の感情を制限しがちなことを指摘している。

比較教育学,異文化心理学文化人類学などのハイブリット的な考察として,独自の考察を示し,例えば幼少期の教育において,制限コードと精密コードの違いの影響などを指摘している。現代理論における洗練さでは,佐藤に軍配が上がる。

 

これは人間に限らず感じるところだ。イギリス留学で都市公園に行ったとき,どの犬もリードをつけていないのが,日本人として驚きだった。なぜか。躾ができているからだ。日本人に飼われた犬は躾が未熟であるがゆえに,リードによって放棄された飼い主の責任を転嫁されている。

日本で育児がしづらいということも聴かれるが,親の自己責任的な部分も否めないだろう。子どもを適切な精密コードの躾で管理できていないから,その跳ね返りが,子どもとその様子を見た社会から返ってきてしまうわけだ。もちろん社会全体の受け入れも冷たいが,悪循環があるように思える。

 

ビジネスや学校などの社会生活においても,肝心なところで感情を吐露しないがために,不要なストレスをかかえて不和や病を抱えることになるのだろう。空気を読んでいるようで,その実ただ自縄自縛の自傷行為なのだ。

 

個人的な絶好なマイブームの故事成語がある。

――鶏口牛後

 

これらはあくまで私が昇華させた拙い考察だが。

 

池田のこうした心理文化の違いを言語表現,文法に見出している点には感心した。

彼はどういう事情か,日本人でも黎明期に長期にイギリス留学に行き,そこでの寮生活などの事実をまとめるとともに,上述のような文化的考察が挟まれている。

自由と規律というタイトルも巧い。

子供じみた完全な自由というのはただの絵空事の理想像で,現実には社会契約的な規律の下地が必要なのだ。

上述のように細かい点は具体的なエピソードになるわけだが,こうして哲学的な真理とも言える考察が伴う点が素晴らしい。

 

 

以下は9のジャパン・アズ・ナンバーワンより。本当は原作を読みたかったんだが,借りたのが後年の振り返りのものだったらしい。別段,それもそれで面白い視点が加わっていてよかった。

経済的視点が強いが,そこにやはり政策的助言とアカデミックな分析が加わっている。また著者の日本での生活も一部振り返られている。かつての外国人が珍しかった当時のお互いの戸惑いやギャップも興味深い。

 

行政改革にはこのような人材がもっと必要である。官僚が自ら改革を行うことなど期待出来るはずがない。民主主義社会では確立した利害関係を打ち壊すことは難しいのである。日本にはこれらの改革を断行できるだけの知識とヴィジョンを持ち、しかも利害関係に拘束されずに行動できる政治家が必要である。

 

アメリカは今好景気に沸いているが、日本と比べると所得の格差が大きい。アメリカでは、会社は金融界のために存在し、必ずしも会社や経営者、社員のための経営がなされていない。

アメリカの企業は、景気の後退に対してあまりにも過敏に反応し過ぎることが今後明らかになるだろう。経営者は経営判断を財務指標にばかり頼って、社会的要因には十分な配慮をしていない。企業がリストラして社員をレイオフすると、その企業の株価は上がる。 社会全体として考えるならば、そのことが与える影響は悲劇的である。

 

永田町,霞が関への批判は,今日にも通じ続けるところもあるか。これも振り返りといいつつ,そこそこ古いので,批判できる状況が続いてしまっている点は憂える点でもある。利害関係と改革。これは官僚と政治家で分権するところであろう。しかし古株,特に自民党の政治家は,ズブズブの既得権益があるだろうから困った話だ。野党も癖があるが,改革についてはいくらか期待したい。。。

そして資本至上主義,株主至上主義へ早くに指摘しているのも先見性を感じる。今日のCSRやESGというキーワードも再帰性を持つのだろう。憂えることに歴史は繰り返される。

またこの著書が,当時の米への傲慢さへの啓蒙として書かれた意図というのも興味深い。まさしく他山の石というところか。これは今効く分野があって,対中外交が挙げられるだろう。

また経済的にはトップであるものの,カリフォルニアを除いては,排出規制に代表される環境政策に国際的に遅れをとっている。

 

 

アルベルティも非常に面白かった。きっかけはTwitterのタイムラインで見かけた漫画だ。芸術系で面白そうということで,またタイトルがアカデミックに堅苦しいのが,却って自分好みだった。確かに大学の1つの単位になりうる濃密で興味深い内容だった。

絵画論はその名の通り平面上の絵画の理論を展開する。その中で,今しがた平面と表現したように,かなり数学的な分析を展開する。理系アレルギーの人は読めないかもしれない。ただ美術の初学者ながら,高等数学を得たものとしては,却って分かりやすい。一般には偏屈に思われるだろうが。ただ本書も少し残念なところがあった。それが図解もしばしば行われるのだが,その図が巻末にまとめられており,それを見比べるのが煩雑なのだ。

また彼の特徴として,歴史に学ぶ姿勢が挙げられる。これを読むことにより,二重の温故知新が得られる。ここでの歴史とは主にローマやギリシャの時代だ。

あるいはむしろこうした時代こそが,プリミティブで原始的で直感的な数学理論のセンスが問われた時代かもしれないし,またあるいは長い期間が各時代の評価を通して,それ以外に淘汰圧をかけてきたのかもしれない。

そういうわけで絵画論が非常に面白かった。またこちらは3部の手紙を元に作られたものに解説が付されたもので,文量も少なめで読みやすい。ページはそこそこだが,半分くらいが図なので,読書癖がなくても,テーマに興味があれば,すぐに読み切れる。

 

終りに、「私は、絵画についてこれらのことどもを述べて来た。もし、それらが画家にとって便利で、有益であるならば、私の苦労の報酬として、次のことを、すなわち、私の顔を彼らの描く歴史画の中に、彼らの感謝のしるしとして、さらに私が芸術に巻くことのない勉強家であることを明らかにする証拠として、描いてくれることを要求したい。」(今日、アルベルティの肖像画は見出されていない。あるいは失われたのかもしれぬ。ただし十五世紀作のメダル、ブラケット、インキでの素描がある)。またアルベルティは、この困難な仕事を企てたことを自ら得意とし、光栄としている。「もし読者を余り満足させなかったとしたら、私に劣らず自然にも罪をきせてほしい。そして私の後から来る人の中から、私以上に優秀な才能と研究心とをもった人が現われるなら、そういう人こそ完全無欠な絵画を制作するだろうと信じている。」と結んでいる。

彼のこの期待に添い得た人は、実はレオナルド・ダ・ヴィンチであった。

 

論理的な頭脳をもつアルベルティは、現実相の客観的認識の論理に気づいていた。そのため、遠近法などの組織的研究に従事した。そして遠近法は幾何学であり、したがって絵画に幾何学が必須なものとしている。幾何学シェンツィア (数学) がartes liberalesであると同じく、絵画もartes liberalesであるとした。つまり、絵画を科学と同列においたのである。

アルテ「芸術の書」(il libro dell'arte)を著わした、チョンニーニは芸術と科学を明確に区分し、絵画がアルテであることに満足していたのである。チェンニーニとアルベルティの両書を比較すると、その根本思想に驚ろくべき相違がある。このアルベルティの根本思想は、レオナルドによってさらに実験により高められた。レオナルドは絵画は一種の精密科学であると共に、諸学の上位に位するものといっている。レオナルドに至るまで、ウッチェロのような実験的技術者が出て、遠近法は研究された。

 

昔からこうした知識人は,上記のダヴィンチもとい様々なジャンルに通じていたが,アルベティもまたそのタイプだったわけだ。

上記の軽いものだろうとのノリでこちらも借りてしまったが,こちらは10巻ほどあるものを大きめのハードカバーにまとめられており,非常にボリューミーだった。返却期間の都合もあり,かいつまんで部分的に読むに留まった。

 

イタリアが度々蛮族の武力に襲われたのは、そのブドウ酒とイチジクがねらわれたこと以外に動機を有しない、とプリーニウスは書いた。それに加えて、この豊かな物資は人々を快楽に追いやり、クラテースもいうように老人、若者にとって有害である。つまり前者を無慈悲にし、後者を柔弱化する。エーメリクスでは――とリーウィウスは述べる――きわめて肥沃な土地であるが、一般に豊かな地方でそうなるように、人々は平和的になった。反対にリグリアの人人は岩石の多い土地に住むため忍耐強く、たえず働かねばならず、生活必需品を極端に節約して日々を暮すことを強いられ、非常に勤勉で頑健である。

 

タイトルは建築論だが,これは土木系も読むべきだ。そもそもかつては,土木と建築に明確な区別がなかったわけだ。これはしばしば叫ばれる現代教育によるカテゴライズの嘆きの1つと同様だ。

具体的には都市計画的な話がまずある。やはり建築としての箱物を造るにも,その土台やネットワークたる部分の説明は欠かせないわけだ。もちろん建築的なファサードやパーツに関する言及も見られた。

上記の引用のような,地政学的な戦争を考慮した立地戦略への考察は,時代らしい点だった。

他にも道路や橋の古典的エッセンスが語られる。現代ではコンクリートに代表される先端技術でゴリ押せてしまうところがあるが,技術的制限の中で工夫した彼らだからこそ,学べる面白い点が多分にある。例えば,橋脚の河川の浸食作用とその対策。案外,岩盤まで杭を打ったりするより,こうした施策の方がコスパがいい可能性は高そうだ。

さらに一見関連は薄そうに思える気候に関する記述が多いのも学びだった。そういう視点で立地も考察し,風向きや太陽を考慮した。具体的には南風は雑菌などが増えやすいのか悪い風らしく,また西日は夜が伸びて心理的に悪いのか衰退しやすいのだとか。

建築という分野について,気候を深く考えたことはなかったので,これまた新しい視点だった。浅い知識として,東工大でビル風の研究をしている先生はいたが,これも極めてシンプルな図式であり,上記ほどの複雑な系・システムのものという印象もない。もちろん流体力学の絡んだその分野も非常に難しいが。

 

 

11のマリー・アントワネットの日記は,上記の中ではかなり異色な現代娯楽小説だが,これもまた歴史の要素をはらんでいる点で面白かった。かくいう私はそもそも高専で世界史をろくに学んでいないので,その歴史の背景が勉強になった。これはある意味加藤の著作と似る要素もある。ただ一線を画すのは,ギャル語の文体で口語的に読みやすく構成されている点だ。これは賛否両論あろうが,殊更マリー・アントワネットをテーマとして扱ったという点において妙技と評せるだろう。

ただ嫁入り前の初期のティーンエージャーの頃はまだしも,人生後半の30歳以降もこのノリなのは如何ともし難い。

 

2のライ麦畑でつかまえても,そういう文体という点では似ているところもあったかもしれない。しかし話が冗長で,起伏も大きな流れも感じられず飽きてしまった。

 

1のウェルテルは有名な心理的効果も知られる。古典の名作の名に恥じない面白さで,ちょうど読んだ後にハーモニーの中で引用があった。それ自体と被引用で2回以上で楽しめるのがいい。