先日も先日とて図書館へ.
禁帯出というわけではないが大きくて持って帰るのもやや億劫なところもあるので,下記の右の2冊は館内で読んだ.
橋のデザインと構造は構造力学的な工学的な解説もしっかりされており,構造美を見るにも非常に有用な図書だった.
デザコンに取り組んでいた頃に読みたかったところだ.
調べてみたところ群馬高専にも蔵書されているようだ.
この頃はまったく本を読まなかったので惜しい.
この機会についでに知ったがScience Directのライセンスもあるようだ.
専攻科まで考えればある方が妥当だが.
高専は特に本科やはり研究というよりかは即戦力の育成に注力しているのが惜しいように思う.
教えてくれればよかったのに.
話を本に戻す.
滋賀の美保美術館の歩道橋は周囲の自然の景観も相まって非常に綺麗そうなので,是非訪れてみたい.
少し調べたところ土木学会のデザイン賞の受賞経験もあるとか.
MIHO MUSEUM | I.M.Pei 設計の美術館。古代エジプト,ギリシャ・ローマ,アジア等世界の優品と日本美術の優品を展示
自然に囲まれるだけあってアクセスは最寄り駅からバス約1時間なのが欠点か.
一方の世界の橋の方は大判の写真が中心で解説もあっさりだ.
この辺りは人の好みによるだろう.
橋は宗教や民間伝承にも登場する。仏教では公共の橋の建設が、仏閣の建立に次いで2番目の偉業とされる。
盧溝橋 Lugou Bridge 中国 北京近郊
1189年に建設が始まり、3年後の1192年に完成した。全長226.5mのこの盧溝橋は、硬い花商岩でできており、10本の橋脚で支えられている。雪解け 水で永定河が増水する時季に強い流れに耐えられるように、ひいては北京に通じる道が安全に保たれるように頑丈に造られた橋だ。「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。ヴェネチアの旅行家マルコ・ポーロは1289 年、「この橋に匹敵する橋はおそらく世界のどこにもないだろう」と評している。がっしりした欄干には台座があり、合計で485体の獅子の彫像が飾られている。
盧溝橋事件としての事件現場の知識しか知らなかった.
歴史的要衝であるとともに橋自体にも構造的な美しさがあるとなると,これはもう訪れてみるしかない.
もっとも日本人が訪れるのは危ないかもしれないが.
以下は借りていたもので今日ついでに返却した.
まずフーコー.
哲学関連の知るきっかけはアニメのPsycho-passからで,倫理の授業の哲学も割と好きだった.
本書は入門向けとして書かれているらしい.
筆者はちくまから中上級者向けの書物も同時期に出版したらしい.
本書はフーコーの出版ごとに時代を追って紹介している.
可視と不可視に関する洞察は非常に興味深かった.
今日の科学では種々の現象の裏の物理・化学法則が解明され,それを当然に享受して生活している.
本書にある話としては病気の本質を探る学術の経緯が示される.
病気に対し従属的に症状が表れることは今日では疑うことがない.
しかし歴史的に見れば,そこに至るまでの見方の変化が面白い.
簡略化すれば,解剖学が発展していくことにより,体内での不調,病気があって,症状が表れることが認識されるに至ったわけだ.
これに従って外科手術も発展していくわけだ.
それまでは物事を表層でしか見れず,本質的深層・真相に迫る動機もなかったわけだ.
また不可視があることにより人間の不完全性,有限性も説明できる.
神が無限で絶対的なものと対立的で,このあたりは無知の知にも似ているし,ニーチェとの近接性も筆者は指摘する.
真理やら無限といえば,Fateシリーズや呪術も関連付けた考察もできるかもしれないし,一部の同人やSS界隈はやっているのかなあと夢想したり.
こうしたフーコーの考察においては,過去の文献などが参照されるわけだが,その中で文学や芸術を用いることもあったようだ.
守備範囲の広さに感心,感服した.
例えばラス・メニーナスにおいて,これまで歴史的には描かれてこなかった画家らが描かれていることが挙げられている.
言語、自然、富に対して記号を与えつつそこに秩序をもたらそうという、以上のような企てにおいて、問題となっていたのは常に、表象に与えられたものから出発してそれを分析することであった。つまり、古典主義時代の思考は常に表象空間の内部において展開されていたということであり、そうした思考にとって、表象の「外」は存在しなかったのである。
なお、フーコーは、そのようなものとしての古典主義時代の表象空間を見事に描き出している絵画作品として、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を挙げている。
このバロック美術の巨匠による一六五六年の作品には、中央の幼い王女、それを取り囲む侍女や廷臣たち、画面左側で絵画を制作中の画家、後方の鏡に映し出された国王夫妻、その隣にある扉の入り口からその情景を見ている闘入者といった、さまざまな人物像がひしめいている。そうした形象の一つひとつを、絵の構成と関連づけながら言葉によって丁寧に辿った後で、フーコーがとりわけ注目するのは、絵画の外に身を置いて絵画を可能にしているはずの三人の人物が、ことごとく絵画空間の内部に招き入れられているということである。
学芸は奥深さが底なしなのが面白い.
以下のような人が友人にいれば人生は非常に豊かになるし,それを公共化している今日の文化教育制度も素晴らしいと思い直す.
フーコーの晩年は社会的な権力闘争の影響もあってか,言説と権力にシフトしていったようだ.
引用でも雰囲気は伝わったかもしれないが,哲学系なだけあってか文章は難解で理解しきれたか自信はない.
個人的にこのテーマで連想したのは,言説を規制する中国共産党の権力体制だ.
あるいはそこで性についても語られたりしている.
さらに様々なワークショップWS(タグに詳しい)に参加してきたので,実例をまとめたものも読んでみた.
本書はWSのファシリテータ向けにまとめられ,運営のポイントが実例とともに記されている.
ロジカルなど丁寧に説明される.
本書に記され興味深いのはブレインストーミング禁止を明記している点だ.
これは個人的にはモノによるのではないかなと思う.
アイデアの発散・収束はこうした思考法においてしばしば重要とされるためだ.
また参加者のプレゼン禁止も記されている.
ふせんを用いて平等に可視化したアイデアを共有することを勧めている.
裏方,黒子としてその他の材料の準備についてもまとめられている.
第2部は特に事例紹介がされていたが,印象としては冗長的で単調だった.
JR西や国交省の話題も興味深くはあるが.
コロナを受けてか貸し出しが3月いっぱいまで延長されたので使い潰したい.