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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

アナーキー

本書は非常に面白かった。
冒頭のフックからして上手くできている。
アナキズムに関する書籍ということで、好物のPsycho-Passシリーズの槙島を思い出さずにはいられない。
あるいはそれに類似する伊藤計劃の御冷ミァハか。

冒頭は田舎の信号から始まる。
端的に言えば、明らかに交通がない状況において、歩道の横断時に信号を遵守するかという問題だ。
明らかに交通がないのであれば、形骸的なルールを守る必要性はない。

自動車側でも遵守の必要性は微妙だが、法体系からして若干の躊躇はある。
そもそも都市においても、歩行者が信号を遵守する根拠とは何だろうか。
車には厳しい罰則があるものの、歩行者には安全性を除けば、そういったものはほぼない。

著者が受けた助言はそういった構造化においても示唆に富んでいて、それを子供に見せられるかという指摘だ。
なるほど、これは厳しい。
しかし子供にも経緯を説明できれば、形骸無実なルールを守らせる道理はないだろう。
日本の現代社会においても、こうした問題は多いと思う。
生意気に見られがちだが、中学生くらいの屁理屈の意見には、こういった側面で正鵠を得たゆようなものもしばしばあるように思う。
それがどういうわけか、社会経験を積むことによって、角が落ちて迎合してしまうというか何というか。

しかし誰も多少は違法行為をしているはずで、顕著なのは幹線道路における最高速度規制だろうか。

社会的混乱も多かったが、いわゆる戦後の時代はこうした言論的な自由度や活気があった。
それがどういうわけか、おそらく反動的なものも部分的にあろうが、弱まってしまった。

P13から長いが引用しよう。太字は私によるもの。

財産権をめぐる歴史的な闘争のなかでは、支配層と被支配層は相手の防塞を攻撃するにあたって、彼らに最も適した武器をそれぞれ用いた。支配層は自らの財産権を確立し、防衛するために、警察、猟場番人、森林管理人、裁判所、絞首台は言うにおよばず、国家の立法機構を支配して囲い込み、土地の権利証書、自由保有権などを保障する法案を成立させていった。農民とサバルタン集団は、そうした「重火器」を用いることができなかったので、代わりに密猟、こそ泥、不法占拠といった技法を駆使して、支配層に対抗し、自らの要求を主張した。たとえば逃亡のような控えめで匿名の「弱者の武器」は、同じ目的を得ようとするあからさまな公的挑戦とは際立って対照的だ。逃亡は反乱よりも、不法占拠は土地強奪よりも、密猟は木材、獲物、魚への公然たる権利主張よりもリスクの低い代替策である。今日の人びとの大半にとっても、歴史的なサバルタン階級にとってはなおさら、こうした技法は唯一実践できる日常的な政治の形態だった。それらがうまくいかなくなってしまった時に、暴動、謀反、反乱といったより死に物狂いの公然たる戦いが生じた。そうした権力への競り合いは、突如として公式の記録に入り込み、歴史家や社会学者の愛する公文書のなかに跡を残すことになる。彼らは資料を漁って、より包括的な階級闘争の視点から公然たる戦いに不相応なほど重要な役割を与えるものだ。静かで控えめな日常の不服従は、たいてい公文書の探索レーダーの目をかいくぐる。運動の旗印を振りかざすことはないし、専従活動家〔幹部〕はいないし、宣言書を書かないし、常設の組織をもたないため、注目をすり抜ける注目の回避こそ、こうしたサバルタン政治を実践している者たちがまさしく考えていることだ。歴史的に、農民とサバルタン階級の目的は、公の記録に収められないようにすることだったといえよう。彼らが公文書に登場した時には、すでに状況がそこまで悪化してしまっていたのだ。


匿名の抵抗という小さな行為から大規模な大衆反乱まで、サバルタン政治のとてつもなく幅広い領域を見ようとすると、ほとんどの場合、より危険な公然たる反乱が発生する前に、脅迫状、放火やその脅し、牛傷害、だらだら仕事、夜間の機械破壊といった匿名の脅威や暴力の頻度が増していることに気づく。地方の支配層と役人は、こうした行為が公然たる反乱の前兆となること歴史的に知っていた。また、その実行者も、彼らの行為がそのように理解されることを企図していた。支配層は、不服従の頻度と「脅威レベル」(アメリカ合衆国国土安全保障省の言葉を拝借した)を、大衆による死に物狂いの政治的混乱が起きる直前の事前の警告として理解した。

ここのリスク管理の話は面白い。
前述の戦後的な活動は、やはりリスクが高いし、持続可能な感じもしない。
時代錯誤的に、今日でもそういった方向性での活動は見られるが、世間から見放されていることが、実社会から認められている。

だらだら仕事という記述も面白い。
これが低リスクの施策の具体なわけだ。
ソ連の崩壊はこれが根本的原因と言えるだろう。
アメリカの直近の静かな退職(Quiet Quitting)も同様の筋立てができる。

資本主義の崩壊的な足音はしばしば聞こえてきて、コロナから聞かれるようになった先進国、アメリカの一部の都市やフランスでの略奪的行為や、アルゼンチンの極右台頭と混乱も引用の後者の記録されるものとして挙げられるだろう。
しかしそれらには流れがあって、アメリカはわかりやすかったが、社会的な不満が増加しつつあったのだろう。

それらは、井戸から市場へ、教会や学校から職人街へと、毎日のように人びとが歩いた跡と荷車が通った轍が公式のものになった結果に他ならない。荘子の言葉とされる「道はこれを行きて成る」(道行之而成)は、そのことを示す良い例だ。


実践から慣習へ、それからさらに法的権利へという進展は、慣習法と実定法の双方で受け入れられるパターンである。アングロ・アメリカの伝統だと、これは所有権の取得時効法として認められている。財産の侵害や獲得が一定の形のまま、ある程度長期間にわたって繰り返されると権利主張の根拠になり、法的保護を得られるというものである。フランスでも、長期間にわたる財産侵害の実践は、慣習として認められ、証明されれば法的な権利を確立しうる。


権威主義的支配のもとにいる被支配者は、自らの大義を擁護する代表を選挙で選出することも、デモ、ストライキ、組織化された社会運動、反体制メディアといった公式の抗議手段を用いることもできない。そのため彼らが、だらだら仕事、サボり、密猟、泥棒、そして最終的には暴動といった手段に頼らざるをえないことは明らかだろう。確かに、こうした異議申し立ての仕方は、議会制民主主義の諸制度や、表現と集会の自由が近代的市民に与えられた後では時代遅れである。結局のところ、議会制民主主義の主要な目的とは、民主的多数派の要求を、いかに野心的なものであっても、完全に制度化された方法で実現させることなのだ。


民主主義のこの偉大な約束がほとんど実現されていないのは、残酷な皮肉だ。

やや誇大的かもしれないが、この民主主義への風刺の記載は個人的に新たな考察を得た。
というのも、日本においては政治への参加、投票率が低い。
これは権利の放棄であり、それ自体が政治そのものへの不信の表明になっている。
これによりやる気のある支配層はより一層支配をしやすいものの、これが示し合わせたわけでもないのに、国民の全体的な低リスクな静かな抵抗を表しているとも読み取れる。

これは使い回された構図だが、積極派の高齢者と消極派の若者の構図にも応用が効くかもしれない。
しかしそんなに高尚な経緯でないのは実のところ明らかだし、これを効果的に発揮させるにはより積極的消極性を政治的に実践する必要もある。
とはいえ1つの手段を見たような気がして面白いと思えた。

また引用の後半は、主に権威主義に対して記載したものだ。
しかしこのカウンターとしての監視等が働くことにより、実際には非権威主義の方が皮肉が働いているように見えるのも、何だか妙なところと思えたり。

さらには個人的にぶっ刺さったのは、都市計画に対する皮肉だ。
都市こそが荘子の言う通りで、都市そのものが本来作られるようなものでもない。
人が住んだところが結果的に都市になるに過ぎない。
計画が綿密であればあるほど、その後の利用は閑散とすると言うのだ。
データがあるわけでもないが、書かれていることは大変納得できる。
計画を進行するにも、至極普通のことだが、市民の声を聞かずしては、成功するものもしないわけだ。

慣習法はそういえば最近もあった。
就活ルールなんかは典型的ではないだろうか。
お上が定めたところで外資なんかも入り乱れいて、結局誰も守らない。
これでは混乱が広がるばかりということで、事実を受け入れる形でルールの大枠が再構成された。
企業がこんな状況なのだから、バカ正直に就活をすることすら馬鹿らしく思えてくる。

内定辞退云々もあるが、それを遵守する必要性もまたないわけだ。


P56
カウンターとして相手に完全服従するのも皮肉が効いている。
冒頭に示した戦後闘争と比べても、柔和で柔軟でうまい。
ストライキ的で利用者らに多少の迷惑をかける点そのものは変わらないが、犠牲は最小限に抑えられている。
当事者の労働者らもこれであれば、それほど心も傷まないというか心理的ハードルも低く、コスパに優れる。

日本でも積極的に取り入れてもらいところである。
特に労務、残業関連の領域だろうか。
会社の支払う残業代に見合う分の労働のみを提供すればいい。
ストライキほど過激でないし、自分の身や産業の健全性を保つために必要な処置なはずだ。

学校での対応としてもしばしばあるが、ルールをただ押し付ける場面が特に教育において多い印象もある。
普通だとそれに順応してしまい、成人になってから、そういったルールを押し返すのが難しくなってしまう。
本来的にルールがルールたる理由を考えることを涵養させる教育こそ重要なのだが。
効率化の犠牲になったのだろうか。

とはいえ、必ずしも団結する必要もなくて、程度を見つつ、そういった交渉のカードを上司や使用者側にチラつかせて、徐々に環境を改善させていくのが実際的だろうか。
働いている内容に代替性が聞きやすいと、ただ配置転換されて終わってしまうが。

これは政治と雇用のみならず、労働現場でも示唆に富む。
一般職と総合職、工場と本社で分断されている場合は、おそらく結構あるのだろうと思う。
一般職側をただエリートが定めたルールに従わせるだけではなく、現場主義的にそこでの暗黙知的な部分を尊重しなければならないバランス感も提示する好例に見える。

労働者は、規則の不適切な点につけ込んで、物事が実際にはいかに運用されているのかを解き明かし、自らに有利なように活用してきた。たとえば、パリのタクシーの運転手は、市当局から課される各種手数料や規制に対して不満を抱くと、熱心に規則を守る遵法ストライキ(grèvedezèle)と呼ばれる手段に訴えてきた。彼らは皆で合意し、タイミングを見計らって、突如として道路交通法規(code routier)に書かれているすべての規制に従い始める。そして、思惑どおりにパリの交通を機能停止に陥らせる。運転手は、自分たちが思慮深く、実践的に多くの交通規則を無視しているからこそ、パリの交通は循環しているのだと知っている。だからこそ、彼らはただひたすら規則に従うだけで交通を停止させることができた。このやり方は英語では、しばしば「遵法闘争」(work-to-rule)ストライキと言われる。キャタピラー社に対する長期間にわたる遵法闘争で、労働者は技術者の定める非効率な手続きに従うということに立ち戻った。そうすることで、彼らが職場でずっと前から工夫してきたより迅速で手際の良い実践を続けるよりも、会社の貴重な時間と品質が損なわれると分かっていたのである。どんな職場、建設現場、工場の作業場でも、実際の作業工程は、それを管理する規則からでは、いかに綿密なものでも適切に説明できない。実際の作業は、そうした規則の外部にある非公式の知恵と即興的な対応が効率的だからこそ、やり遂げられている。


P86
ここの記載は私も反省するところだ。
職場の飲み会において、会社や部署から自身の上澄み感を同僚、先輩と確認しあった場面があった。
これは客観的にも事実として至極真っ当ではあるのだが、そういうキャリアを歩んできたからといってそれが肯定されるわけでもない。

教育制度において、一種の頂点と見なされている。これらの国々では、それまでの努力が一回のテストで試され、その結果によって将来の流動性や人生の機会がかなりの程度左右される。ここに至って最上級の学校に入学し、学校が終わっても塾に通い、テストに備える特別コースに出席する競争が熱を帯びることになる。


なんと皮肉なことに、これを書いている私も、この本を読んでいる読者のほとんども、このラット・レース〔愚かで激しい出世競争〕の勝者であり、受益者である。私は、イェール大学のトイレの個室で目にした落書きを思い出す。「覚えておけ!たとえラット・レースに勝ったとしても、おまえは所詮ラットなのだ!」と誰かが書き、その下に別の筆跡で、「その通り。でも、俺らは勝ち組だぜ」と即妙に返していた。


このラット・レースに「勝利した」私たちは、敗れていれば手に入らなかったであろう機会と特権を終生享受することになる。私たちは、この勝利がもたらす肩書き、優越、偉業、自尊心の感覚を将来にわたってもつことになるであろう。

受益者という記載が面白くて、そういう人がいるということは、対照的に割りを食っているような人もいると考えるのが自然だ。
そして子供に対してはいい大学に行くという1つのレースのゴールのみが定められてしまう。
これがまさに権威主義的で多様性に欠けてしまっている。

本当はレースの外にもできることはたくさんあるし、別の動物にトランスフォームして強みの発揮を模索してもいいのに。
社会全体の損失と言える。
特にアジアではこの傾向が共通して顕著でもある。

先進国では人口の減少と相まって、共通したそういった傾向にもある。
おそらく次の覇権国においては、この課題を構造的に解決することに糸口があるようにも思える。

なんか性格上、どうしても書こうとすると、マクロ的に書いてしまいがちだ。
ただその分、一般性の高い話にもなっていると思う。
法律、契約、色々あるが、時々にはその根拠を考えながら、遵守の必要性を吟味できるという話だ。

私の好きな主題である転売なんかも似た話だ。
運営やメーカーが何と言おうと、現状はこれを縛る法律もないはずだし、販売者の言い分に拘束力があるのかも微妙だ。
転売者本人や買う人、割を食う人、色々ステークホルダーがいるので、議論という議論になるかは微妙だが、慣習法的な収束をいずれ見せるかもしれない。
個人的には運営が動的価格を導入すれば済む話だと常々思っているのだが。

他にもIT大手の禁止行為として、DLやスクレピングなんかがあったりするが、一般的な法律や権利に抵触しない限り、行使する自由を利用者側は持っているのではないか、というのが個人的な見解だ。