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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

リバタリアニズム

本を読んだものの感想をまとめられていないものが膨大に溜まってきたので一部だけでもまとめたい。

直近には参院選があるので、まずは政治系から、ことさら今回読んだものに最も感銘を受けたという個人的な要因も大きい。

 

偉大なるアダム・スミスが、自由主義と社会の法則とを結びつけた。彼はいう。
「誰もが自由に生きれば、市場の”見えざる手”によってすべてのひとが幸福になるであろう」
 そのために必要なルールは、たった三つしかない。


①自己所有と私有財産の権利は不可侵である(自己所有権私有財産権)
②正当な所有者の合意を得ずに財産を取得することはできない(暴力の禁止)
③正当な所有者との合意によって取得した財産は正当な私有財産である(交換と譲渡のルール)

ウォルター・ブロック (著)、橘 玲 (訳)『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』 (ハヤカワ文庫 NF)

 

著者(訳者も?)は自由至上主義リバタリアンだ。モダンなイデオロギーとしてリベラルもあるが、経済的なポピュリズム、理想と現実の背反といった部分で立場が異なる。

改めて説明するまでもないかもだが、リバタリアンは自由を重んじ、リベラルは自由も重んじるものの平等的な側面も重視する。社会保障、福祉の面で特に外国では顕著に思える。リベラルといえば白人富裕層の欺瞞的な雰囲気もあり、オルタナ右翼を筆頭とするトランプ陣営にプライドをへし折られたような印象だ。

リバタリアンはリベラルの偽善的な部分を嘲笑する雰囲気もある。また自由市場を重んじる過程でアナーキー的でもある。この点は日本の特に若者のノンポリ的雰囲気とのシナジーもあるように思う。

以前はリベラルな部分に賛同的だったが、本書でリバタリアンに鞍替えした。前述の通り欺瞞的で自己犠牲的な気持ち悪さもあったからだ。

 

As Is

pytho.hatenablog.com

 

To Be

価値観診断テスト結果|山猫総合研究所

 

また再度テストを受ける過程で、面白い記事も見つけた。やや古いものの現在の政治状況の分析、考察にも資するだろうか。

「日本人の価値観が4象限に散らばっている理由とは?」 | News - 連載・寄稿 - 山猫総合研究所 – 三浦瑠麗

 

ただリバタリアンアナーキーな雰囲気もあって、このイデオローグでどこに投票しようかというのはまた別で難しい。革新派=リベラルで原理に違いがあるものの、改憲議論では護憲派として一強多弱ながら類似しているのも気持ち悪い。

上記のリンクの4象限で考えれば、保守が自民、ポピュリズムが維新や小泉政権などの自民の一部、リベラルがその他野党と雑に考えたとき、リバタリアンは空白だ。

ともすれば党戦略として、ここはブルーオーシャンにも思える。もちろん上記の分析は比較的感度の高い人を相手にしたので、現実には惰性の保守派とバラマキなどに釣られたポピュリズムが多いようには思う。しかし野党の停滞したリベラルに留まらない与党への挟撃の手段足り得るだろう。

 

かなり政治に話がズレてしまったので、題名にもある経済についても述べておこう。

同様に自由至上主義を通じた経済市場を重んじる。正直アメリカ、シリコンバレーの勢いを見れば、この潮流に乗らざるを得ないのが現在の勝ち筋トレンドではないだろうか。乗れなかった内省を直近の別の本で見た。

立川の硬直的な経営でドコモは、KDDI(au)に通話料の値下げ競争や「着うた」サービ スで後れを取り、Jフォンが写メールを大ヒットさせても、カメラ付き携帯電話に本気で取り組むまで時間がかかった。

立川は「iモードの技術がいらないという会社があったら、お目にかかりたい」と豪語し、各国の通信会社に次々と出資。その投資総額は2兆円に及んだ。だが公社体質に戻ったドコモの殿様商売が海外で通用するはずもなく、「iモード」は世界に根付かなかった。結局ドコモの海外展開は、1兆5000億円の損失を出して「打ち止め」になる。

ドコモの失敗で、iモード対応の携帯電話を海外で売ろうと意気込んでいた電電ファミリーも総崩れになる。2007年にアップルの「iPhone」が出た後も、電電ファミリーはドコモに義理立てして「ガラケー(旧式の携帯電話)」に固執したため、スマホへの対応が遅れた。これが致命傷となり、日本メーカーの携帯電話は世界市場で完敗することになる。

真藤が改革を完遂してNTTやドコモがまともな民間企業になっていたら、iモードの世界展開はまったく違う形になっていたはずだ。iモードが世界標準になれば、今ごろ、日本メーカーがファーウェイを押しのけて世界市場を席巻していたかもしれない。

起業の天才! - 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男 - 大西 康之

 

非自由市場の温室の弊害と機会損失が非常に具体的に記載される。同様の雰囲気は準公務員的な会社の就活でもひしひしと感じた。もちろん過剰な自由を重んじて産業や安全が軽んじられるのはまずいので、セーフティネットとして政府の保障や制限は必要だろう。しかし健全な市場のためにも最低限に留めるべきで、神の見えざる手を信じるべきだろう。杜撰な会社は株価下落や顧客離れを必ずや招くはずだ。

ESG投資も類似する。法的に強制するのではなく、漸進的に経済市場に任せるべきだ。

 

pytho.hatenablog.com

 

そしてこのコンテクストにおいて、直近の総務省の動きは過剰だ。詳しくは下記にも述べた。

 

pytho.hatenablog.com

 

検討の方向性(案)について(いわゆる「転売ヤー」対策について)
令和4年6月7日
総務省 事務局

https://www.soumu.go.jp/main_content/000818330.pdf

 

さらに脱線した話を戻すと、本書は転売も取り上げる。転売は需要曲線を是正するから、むしろ市場にプラスとまとめる。Exactlyだ。小売業の損失だとか、消費者負担の増加、そもそも転売ヤー不労所得的に稼げることへの僻みが主たる反対意見だろうか。しかしこうした意見は基本的に冒頭に述べた3原則を侵害しない。ゆえに容認される。

小売業の損失?稼ぎ時なら稼げば良い。私たちが皆そうした市場環境に身をおいているのは誰もが承知のことだ。飛行機は需供に従うダイナミックプライシングがある。情報が高速化したのだから、産業構造も変革すべきだろう。

消費者の負担ほどおかしな意見もない。欲しいのなら高い金を払うのは経済学の原則だ。転売を禁止すると、人気コンサートの是非は完全に運になってしまう。経済市場の敗北だ。金の方がまだ救いがある。高額で出せないなら、それは主催者が悪いのではなく、金を用意できないあなた自身が悪い。そういう社会なのだから仕方ない。2流アーティストか追加公演かクレカの追加枠でも頼るしかないだろう。むしろ健全なルールを整える意味において、こちらの方がやはり妥当ではないだろうか。

転売屋の不労所得も一面的にしか捉えられていない。転売屋も市場を完全に読めるわけではないから、在庫リスクなどを抱えており、この点は既存の小売業と大差ない。むしろ市場の調整役として機能していると本書は説く。ただし専らこの利益を脱税する点についは私も容認しがたい。これは個人化しつつある性産業でも同様だ。

とはいえ、筆者は税についても理不尽な政府による経済的暴力として容認しがたい姿勢をとる。アナーキーだ。これは個人的には過激に思える。確かに小さな政府として減税していくべきとは思うが、公共施設の維持管理などの最低限の社会資本整備としての税、財源は必要だ。ただし税本来の再分配の役割は、最小化してもいいだろう。なんだかんだサッチャリズムを否定しきれない、むしろ迎合気味な自分がいる。

 

転売屋をもう少し深掘りしよう。特にやり玉に挙げられるのは、メルカリへの出品だ。もちろん不法な手段、暴力で入手した商品を扱うのは不適切だ。例えば熟す寸前の果物の盗品。しかしそれ以外で取引が成立したなら、需供が是正したわけで経済的にプラスだ。取引に立ち会わない部外者はつべこべ言うべきでない。

そういう意味で下記の施策は先進的だったものの、先進的にすぎて世論の理解を得られなかったのも非常に残念だった。しかし現在では炎上、インプレッションという指標により、非金銭的な経済インセンティブも働き、市場が一層複雑化しているとも言える。

 

 

さて、またスマホ転売に話を戻してみよう。

下記の通り、市場関係者も現状に課題を感じているのは総務省と同様だ。消費者も概ね賛同だろう。

[ドコモ井伊社長が語る「スマホ1円販売」と転売問題の原因と対策] - ケータイ Watch

であれば、官僚が出向かずとも、漸進的に是正が進むはずだ。確かに各キャリアがそれぞれに行いゲーム市場的に難しい現状なのは確かであるが、やせ我慢対決なのでいずれ資本的にも限界が来る。そこまで待たずとも、株主や販売現場から指摘が入るはずだ。そこでの自由市場での工夫によって、十分に乗り越えられるはずの課題である。ゆえに政治の過剰介入は望ましくない。

むしろ急進的な介入は、再度どこかに禍根を残すだろう。市場のインセンティブ外からの外力は全体の構造を歪める蓋然性が高い。場当たり的な可能性も高い。現にかつての2万円制限が尾を引き続けている側面もある。そのルールが守れているかは本来的には不問で、適正価格や割引体系かを見るべきだ。このあたりのセンスはやはり市場のセンスに問うべきだ。

 

最後に本書の特徴をまとめておこう。

本書は訳書であるものの、現代日本にあわせてかなり改版されている。これは訳者も自身の仕事を超訳と揶揄するほどだ。ただ、だからこそ身近で読みやすい内容になっている。これを受けて私自身も最新の経済・政治動向と照らし合わせてみたところもある。

個人の作業の自由が過剰なまでに重んじられて、むしろリスペクトすらあるのがまたリバタリアン的だ。

 

本当は数冊を取り上げる予定だったが、別の引用を挟みはしたものの、最初の1冊の記述が濃すぎてしまったので、続きはまた次回にしたい。