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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

関東大震災と上野

先週の9/2に上野の東京国立博物館で講演を聞いてきた。
たまたま1ヶ月位前に募集ページを見つけられたのが幸いだった。
ちょうどその頃は科博のクラファンで、上野界隈のインプレッションが全般的に上がっていて、かつそれをキーに自分自身でも少し検索していたのが、レコメンドに効いていたかもしれない。

概要

地震

講演内容はタイトルにも示した通り、関東大震災について。
ちょうど100年の節目の年でもあり絶好のタイミングだった。
しかしその後にも激甚が多かったためか、個人的な印象として、100年目としての世間の盛り上がりは低かったようにも思う。
最近の博物館趣味と元の専攻の土木系との関連性から非常に興味深い内容だった。
また講演のみならず、特別展示室にもそこでの被災文化財やそのレプリカ、当時の写真などが展示されていた。
文化財保存という本来の目的のみならず、啓蒙的位置づけでも本特別展は個人的に重要性の高いものと思った。

防災関連思いつき

そういえば博物館でという文脈はあまり見かけないが、そういう激甚観点の特別展、企画展もありな気がする。
気は遣うだろうがダークツーリズム的文脈も兼ねて。
逆に濃すぎるが広島の原爆資料館や九段下の昭和館はそのあたり強い。
例えば処理水も注目を逆手にとって、科博とかで原子力特別展とか量子力学企画展とかやったら、非常に注目されて、特にインテリな潜在層にもアプローチできそう、なんて妄想してみたり。

芸術分野@東京都現代美術館

あ、そういえば現代アートではそういう批判的というか風刺的な文脈の作品も見かけた。
あるあるなんだろうが、先日、清澄の東京都現代美術館ホックニーの個展のついでに通常展も見た。
そこに原発に直接的なものとして、その無人のコントロールセンターを模した模型作品の写真だったかの作品があった。
材質がマットで均質的な印象もあったためか、確かに不気味さみたいな表現があった。
テーマとしては安直な印象もあるが、さすがプロ、美術館に評価されるレベルとしてディティールに凝っているというか。
雰囲気的には2001年宇宙の旅のHAL的空気感と言えば伝わるだろうか。
もっといい表現や近接性のある作品があるだろうが、このあたりは自身の教養の浅さが出る。

会場

だいぶ脇道に逸れたが、今回は上野での講演会があくまでも中心。
テーマは月例講演会「関東大震災東京国立博物館」で講師2名による2部構成。
公演場所は平成館の大講堂。
立派でなかなか荘厳なもので、こんなものがあるのかと驚いた。
せっかくなので写真を撮りたかったが禁止ということで、スライドのことかなと思いつつも避けておいた。

第一部

トーハク歴史概要

第一部は上記の特別展の室長も務めている佐藤さんによるもの。
彼自身は刀剣が専門らしいのによくやるなというのが個人的な第一印象だった。
察するに文化芸術分野の人材不足、もとい予算不足が深刻なのかなと。
そもそもとして上野地域やトーハクの歴史は、そこまで明るくなかったので、そこが純粋に学びだった。
結構建て替えなんかもあり、皇室の預かりもの:御物を収蔵していたというのも歴史を感じる話だった。
一方でキリンの剥製の科博移転の話も出たりしたが、これは知っていた。
しかし科博が以前は御茶ノ水の方にあったというのは初知りだった。
ロンドンはBritsh Museumこそやや離れているが、VA MuseumやScience Museum、自然史博物館もSouth Kensingtonに集中していたので、歴史的にそういう収斂や力学があるのかなと思ったり。

激甚種別

大前提として冒頭に日本の近現代の3大地震関東大震災阪神淡路大震災東日本大震災の比較があり、そんなの概要は把握していると思いながら聞いていた。
「関東大震災100年」 特設ページ : 防災情報のページ - 内閣府

しかし講演内容をこうして改めて振り返ると、ここでのまとめはなかなか馬鹿にできない重要性を持っていたと思い直す。
そもそも概要を把握しきれない人向けというのも、ユニーバサルサービス的にあるとして、災害の特徴の比較が重要だった。
ポイントは火災型、振動そのもの、津波型という類型だ。
関東大震災は火災がひどかった裏返しというか、注目が弱いだけかもしれないが、建物被害自体は比較的軽微だったらしい。
また火災自体も免れていて、高台地形や密集性が低いといった地理的特性が幸いしたらしい。
逆に上野以南、以東の下町は焼け野原になり、そこが科博前身施設への差分にもなったわけだろう。

博物館の基本機能

また科博がほとんどの資料を失ったり、現トーハク:東京帝室博物館でも一部資料に被害が出た。
そこで本来的な文化財保存に関連して、模造や特別展が強化されるような流れになったそうな。
やはり歴史的にも見て、こういった外力はとんでもないながら、文化的前進の活力になっていることも否めない。
さらにバラック建設での公園利用の影響が大きそうだが、宮内庁管轄の帝室という位置づけから下賜されたのもこれらのタイミングなそうな。
そういうわけで上野「恩賜」公園と、なるほど。
ただここに関しては、震災のみならず、世間的な革新推進といったデモクラシー的な影響も大きそうにも思える。

作品詳細

珍事として被災本体とレプリカが展示品に並立しているらしい。
詳細は確認しきれなかったが、防災に関する展示をしているこの期間ならではだ。

作品に特化したエピソードもいくつかあった。
特にかつての展示方法が面白かった。

生き人形はまさしく生きているように五体満足的に飾られていたらしい。
今日はその顔の造形を見たく、体の構成は軽視されがちだろう。

刀の展示も独特だった。
当時は1つの台にはしご状にいくつも展示されていた。
上部は地震の振動の加速度に弱いので、多くが落下してしまったらしい。
今日は刀剣は基本的に1つずつ飾られているのとは非常に対照的だ。
文化財に対するリスペクト的な概念とかが向上したことも影響しているだろうか。

一方で世間に対する文化財への評価に博物館の展示方法が迎合的な印象もあるかもしれない。

第二部

本館:コンドル設計

第一部はこんなところで、休憩を挟んで第二部。
話者は黄川田さんで文化財防災センターとやらを兼務しているこちらはその手の専門性が高い。
特にこの人の話が個人的には面白く、というのも館内の建物、特に1号館の被災状況の土木学会の報告書がまとめられていた。
そもそもこの1号館はお雇い外国人のコンドルの設計で、現代日本から見ると地震国においては不適切と言えた。
マニュアルは血で書かれるとも言われるので、これは歴史的に仕方のない部分もある。
この建物は玄関が崩壊したり、他にもひび割れが大きく入ったりしてしまい結局建て替えとなった。
しかし被災直後においては、玄関もまだ形をギリギリ保っていて、土木学会の調査段階でもこれを保っていたらしい。
その後、崩壊してその写真が宮内省に残り、有名になってしまったそうな。
玄関の崩壊は余震によるものだったりしたのだろうか、そこの詳細は不明らしい。

表慶館

そんなこんなで現存する建物としては当時にも建っていた表慶館が最古になる。
これは建築から日が浅かったこともあるだろうが、壁が銅板で覆われていたり、地盤が強固だったからとされる。
前者は今日の構造力学においても、靭性の高い材料を構造的に効果的に利用したことが評価できそうだ。
地盤については眉唾感もあるらしく、そもそも建築当初に軟弱だったので、基礎コンでかなり地盤改良をしたらしく、その影響らしい。
耐力はやはり基本的なところが最も重要らしい。

光学設計

ここまでは土木的観点が強かったが、中盤は建築的な光学設計の話に移った。
黄川田さんの専門との関連性からというのも多分にありそうだった。
文脈としては被災にあたっての建て替えにおいて、展示環境においてその光の処理が遡上に上がったらしい。
当初はコンドル設計を踏襲する予定らしかったが、最終的にはご存知の通りというかコンクリで固めた日本風に落ち着いた。
実物大の模型を作って、四季の光の差し込み方を研究して、論文にまとめたりもしてたらしく、新国立競技場かそれをも超える力の入れようだったらしい。
現在でこそ、四季の太陽高度による光の角度や照度は概ねシミュレートできるだろうが、このあたりは当時らしい。
あるいはそうでなくても、やはり実物重視というところは現代でも今なお強めな考えでもある。
自然光をうまく入れつつ反射させるバランスが考えられていた。
さらに宮内省の内匠寮も関わったらしく、なんかすごい。

モダニズム建築と前川國男

この日本風のものはコンペの規定に書かれていたらしい。
とはいえ詳細はコンペ応募者の案が採用されたわけだ。
しかし応募者の中にはしばしばそうした規定を破る案もあったらしい。
その中に前川國男もいたらしく、当時はまだ若かったものの、後に頭角を現して近所の西洋美術館の設計を行ったのはさすがというか先進に過ぎてしまったというか。
本館日本館も悪くはないが、やはり上野の建築といえば、西洋美術館のピロティだ。
先進に過ぎたというのは、日本風の規約があったにも関わらず、こうしたモダニズムのこだわりを譲らなかったらしい。
こういう前日譚的なのは目立たないので、こういう機会でもないと、なかなか知られない。
その後本人的にも負ければ賊軍的に発言していたとか。
意外とウィットというか面白い人だ。

翼賛会と瓦礫

なお復興にあたっては翼賛会で資金集めなんかもされたらしく、かの新札の渋沢栄一も名を連ねたとか。
翼賛会としての位置づけとして、昭和天皇の即位に合わせたというところもあるらしい。
このあたりはさすがに関東大震災、100年前、重み、長さの規模が違う。
とにかくそこで献上するような情勢もあったとか。
また部材を使いまわしてコンドル設計を踏襲、再興したかったらしく、瓦礫を保存もしたりしていたが結局使われることはなかった。
とはいえ、その資材が湯河原で使われ、今日にも残っているのはすごい。

現在の防災

建物に関しては大学の建築士の受験資格を得るための単位取得が思い出された。
主要構造部、構造部材が云々というのがあるが、そういうのが関東大震災に限らず、トーハクに限らず、知見が蓄積されて改正されてきたわけだ。
とはいえ直近の博物館関連の話もあって、東日本大震災において重要性が比較的低い天井の化粧板の落下が公共施設で見られたので、改正されたという余談もあった。
こういったエピソードは防災センターならではだ。

建築は話が広すぎるが、博物館の展示としての話もあった。
上述したように文化財いくつかが破損したりしたわけで対策もされている。
土器の下部に砂の重りを入れて重心を下げて転倒リスクを下げたり、シンプルに支柱をつけたり、隣の展示物を壊さないように離したり、展示のケースそのものや台に免震構造を入れたりなどだ。

また展示中でない倉庫についても、扉付きにしたり梱包したりといった話が聞かれた。
特に台の免震構造はすごいなと思った。

後日談とか

本公演自体は事前抽選制で無料だった。
そして「上野の山散策ガイドツアー」の先駆けのような位置づけだったらしい。
このイベントとの関連は講演後に把握し、この企画内に面白そうなものがいくつかあったので申し込みをした。
上野というのが最高だ。

講演自体は無料だったがトーハク内で開催されていたので、当然入場料はかかっている。
その際に企画展を含むものにするか迷ったが、到着したのが公演直前だったこともあり、企画展まで回りきれる自信もなかったので、通常展のチケットで入場した。
ちょうどその日はメキシコの特別展の上野での最終日の1日前だった。

そこそこ興味深かったが知ったタイミングが悪かったこともあり、本展の鑑賞はパスせざるを得なかった。
同じ時期感で西洋美術館の方でもスペインが版画という切り口で扱われており、ガウディからスペインの面白さに惹かれたものの間が悪かった。
スペインとラテンアメリカ系は黄金時代とかで関連性があるように思えるが、このあたりの企画展の連携は狙ったものだったのだろうか。

またシンプル体調的に疲れ気味だったというのもある。
ということで、企画展の域外の売店でも図録が売っていたのでつい買ってしまった。
こうしたものは積み重なるばかりだが。。