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高専から駅弁大学から東工大を経て大企業へ 浅く広い趣味とかキャリアの日記を

最高の美術企画展

4/15金曜日、アフターシックスで就業後に乃木坂は国立新美術館の企画展のメトロポリタン美術館展に行ってきた。

met.exhn.jp

 

これまで訪れた国内の美術展の中において、最も素晴らしく最高の展覧会だった。

そのため折を見て再訪したい。

 

 

総括

ルネサンスの芸術絶賛期の少し前からを時代範囲として、展示内容に多様性を持たせているのがよかった。

なぜ最も素晴らしいと感じたかといえば、この多様性の対応範囲の広さだ。

どうしても企画展では主題となる国や時代が絞られやすいし、国立西洋美術館は閉まっていて近代美術の主流派な西洋美術の体系的なところが一時的に欠けていた。

 

また規模の小ささゆえか、ベルトコンベア的な展示が多い。

本展は観覧者の回遊性が担保された配置なのもよかった。

それでありつつ秩序的に章立てのマクロな組み立てはベルトコンベアの一路的な設計だった。

バランス感覚に優れる。

 

そういえば美術館だと乏しかった方法だが、博物館ではそういうのが多かったなあ。

こうした展示の利点は、まさしく自由に回遊できることだ。

ある意味左派的でアナーキーとも言えるか。

ベルトコンベアは流れが規定される上、人が多ければ滞留がどうしても日本人的に敬遠される。

 

この美術館趣味の原点が英留学であることは、本ブログでも何度か言及したと思うが、その原点たる海外の美術館の特別展というのも強く影響しただろう。

ナショナリストというわけではないが、やはり海外の方が全般的に文化的水準が高いのが悔しい。

 

pytho.hatenablog.com

 

 

第一章:信仰とルネサンス

1キリストの磔刑

解説によれば、三次元性の表現の黎明だったらしい。

大きさの遠近感とか、後進からなら課題を指摘できてしまうが、当時の革新性は驚ける。

反対に現代的にそうした課題感を技術的に感じさせつつも、それを超える凄み、神聖さが金地や主題から感じられる。

また塗りがのっぺりマット気味なのも、それはまた面白い。

 

3聖母子

前時代的雰囲気が強いが、国内の美術館では見かけないからこその希少性の面からの魅力、魔力がある。

平面的でありながら奥行きを感じる。

上記とセットで展覧会の冒頭に設置された、展示設計的な狙いも面白い。

 

5ゲッセマネの祈り

ラファエロの実物を見たのはおそらく初めてだった。

その名は知りつつも、以降の時代の作者に比べ、個人的に代表作などの知識にもやや乏しかった。

率直に言って唸った。

決して第一印象は派手でも超技巧的にも思えないが、眺めれば眺めるほど奥深さ、味わいがうまれてくる。

それは例えば具体には、地味にディテールがしっかり凝りつつの、主題と外向き構図の相性などが挙げられる。

 

10聖母子

解説に同意して焼き回しになるが、髪の毛や指の皺の表現が至極繊細だった。

こういうこだわりは、もちろん本人の意識や器用さもあるが、それを生み残す環境としての国、文化、歴史も少なからず、「背景」として絵の中にある意味影を落としているだろう。

 

12男性の肖像、13ベネディクト・フォン・ヘルテンシュタイン

時代の割に高い写実性に驚いた。

 

15羊飼いの礼拝

大胆でシンプルな塗りでありつつ、時代の割に緻密な光が表現されている。

このあたりは実は後の印象派に影響を与えたりしたのだろうか。

全体の暗さが中央キリストの明るさ、白さを引き立たせる。

大胆で大きめだからこそ、引きで見ると特にそれを感じる。

これは近くであるいはグラスを覗き込むよりも離れることにより、芸術的価値を増すようにも思える。

 

14パリスの審判、17ヴィーナスとアドニス

いずれも女の美しさ、特筆して背中の美しさが光る。

非一般的な陶酔気味なフェチか、それとも宗教性との共存の模索か。

そもそもの官能性とは、当時のそもそもの嗜好は、と考えさせられる。

また後者はキューピットの視線が不気味さを助長する。

 

第二章:絶対主義と啓蒙主義の時代

19クレオパトラの死

多言は避けるが、目の表現が現代の萌え絵の派閥の1つに似ているように感じたのが気になってしまった。

最もコンテクストは異なるのだが。

 

22男性の肖像

主題や雰囲気も好きすぎる。

かっこいい。

中世のジョニー・デップ的な。

 

27女占い師

ポスター、チケットにも用いられている本展で知名度を大きく上げたか。

服の鮮やかさが目を引く。

階級の差もあるだろうが、こうした当時の文化を鑑みれば、国内外問わず中世の質素な装束の表現への違和の提示も妥当性が高まる。

大河ドラマ衣装、目がチカチカ? 担当「考証に基づく」:朝日新聞デジタル

 

解説によれば、昼の光だとか。

俄然、夜の光も気になる。

特にこれは現代の人工光とも異なるだろうし、さらに面白そうだ。

 

29足の不自由な男を癒やす聖ペテロと聖ヨハネ

構図と色が非常に計算されている。

色相環、一点透視図法、技術的手本か。

 

31穀物畑、34森の道

西洋の歴史文化の特色か、宗教画、肖像画が多かった中、ようやく風景画があった。

これが冒頭で述べた展示作品の多様性だ。

色味抑えて素朴さが際立つ。

最近のスマホの写真は自然さよりも間接的に映えが意識された鮮やかさが重んじられる雰囲気を感じる。

また撮影後に彩度を上げたり過剰な加工も場合によっては炎上したりしている。

ある意味そこにアンチテーゼも映る。

最も時系列から明らかに作者の意図ではなく、現代の私なりの拡大解釈であるが。

北方雰囲気も漂うが、風車はやはりオランダだろうか。

印象を語るばかりであまり調べていない。。

話が前後するが、風景が自体が当時としては先鋭的だったのだろうか。

入道雲的な雰囲気ながら、夏を感じるが、その活気は抑えめだ。

反対に現代のアニメの雲の表現が、均質化陳腐化しているのかなあとも思案したいり。

 

32信仰の寓意

フェルメール作だからだろう、混雑していて人気があった。

寓意が珍しいと記載されているが、先の手紙の件など今後もひっくり返される可能性もありそうだ。

 

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これもあまりに作為的で個人的には好きではない。

ノンポリ的志向も影響しているか。

小物の意味づけ、寓意性以前に宗教性が漂っている。

カーテンと姿勢の斜めな構図や、対象の筆致の細かさの書き分けは見事だけに、どこか惜しさを感じてしまう独善とその内省が心に入り交じる。

 

43二人の姉妹

いかにもフランス的で、こういう判断がつくようになってきたのを自己の審美眼の成長と捉える。

どこがと言われれば難しいが、薄氷的絶対性、白さ、派手さ、儚さ、清楚さ、薄さ、幼さといったところか。

天使の表現が外挿されているのも面白い。

ドレスのメルヘンチックな可愛さも、主題の少女を引き立てる。

マリー・アントワネットの元気さ、奔放さを歴史文化の間接の文脈にて感じる。

ここは鶏と卵的な問題もあるが、類似性は言語表現できない暗黙知的精神的な要素に感じずにはいられない。

 

pytho.hatenablog.com

 

ただ左下の人形の顔が不気味なのは、その後の革命を示唆するのか。。

 

42ヴィーナスの化粧

上述の派手さ豪奢さと裸婦像のエロさがさらに高度だ。

上記と子供と大人の対比も感じられるか。

まさしく絶対主義の絶対性の終着点か。

 

44ラ・シャトル伯爵夫人

知ってる画家の安定感。

超有名所でないところの中では、最も好きかもしれない。

相対的に派手さが控えめで、質素さ否清楚さ。

ある意味、絶対王政の絶対性の終焉の片鱗を感じられるのは、歴史を外挿しすぎた見方になるだろうか。

 

47サン・マルコ湾から望むヴェネツィア

長期的には主要交通モードも変化という示唆も現代からは得られる。

紐のカテナリーや帆、風雲の流動性幾何学的柔らかさが妙技だ。

 

第三章:革命と人々のための芸術

57ヒナギクを持つ少女

ルノワール主体が引き立つ光の印象派だからこそ目を引く。

一見ブサイクだが、ふくよかだからこそ筆致に効果抜群か。

光と言えば、白系は膨張色とも言うし、そういう科学、技術的背景が影響しているかもしれない。

一連の流れだからそこ、セザンヌ含む後年もここに映える!

 

61花咲く果樹園

草原は彼らしいが、木の枝が「浮世絵」的だ。

ただフェルメールと違い、ゴッホの単一だと案外人気がないようだ。

私は好きだが。

 

59踊り子たち、ピンクと緑

印象派でも一際印象的だった。

 

65睡蓮

モネの有名連作で、本展の中でもかなりの大型。

浅いが、狂気、ニーチェ的深淵な雰囲気も感じられる。

 

64ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋

印象派自体が地中海の鮮やかさなどとのシナジーがあるか。

そういえば北欧やロシア方面はこうした表現があまりなかった気がする。

一般論に回帰するが、北方は文化的にも淋しさがあるように思う。

ロシア文学特有の薄暗さ、仄暗さも同様だろう。

 

pytho.hatenablog.com

 

うーん、文化的だ。

Vermeer

表題のとおりフェルメール展について。

 

www.tobikan.jp

 

 

東京都美術館ゴッホ展でも行ったので、割りと近い再訪だった。

隣のコルビュジェ建築の国立西洋美術館も改修工事がほぼ完了して、早速企画展も告知されておりこちらも楽しみだ。

 

nature2022.jp

 

手紙を読む女

今回の展示内容について、復習的に補記的に以下に動画リンクを貼っておく。

 

youtu.be

 

山田五郎氏は今回の改修に関して明確に否定的なようだ。

ここは個人の分かれるところでもあるし、美術界隈のお偉方の意向は窺い知れないが、改修に否定的であろうと規則ですからということもありうるだろうか。

 

展示では目玉の本作は中盤にあったが、やはり主題から感想を述べようか。

個人的にも一枚の絵としては、塗りつぶされている方が好きだ。

 

ただキューピットの存在が明らかになっていたことに関しては興味深い。

今、これが完全に物理的にも暴露されたことで、絵の中の主題としてのメッセージ性や寓意性が一層強まっている。

しかしこれが些か主張が激しすぎて、すなわち露骨すぎて微妙だ。

 

動画中で山田氏も述べているが、日本人は侘び寂びを重んじる。

ノンポリ民族には風俗画や風景画のような宗教性が弱いもののほうが親和性も高い。

また特に現代人はややこしく解釈性が悪いものほど評価される傾向もあるように思う。

文脈が若干異なるものの、現代美術もその延長だと、私は考えている。

 

こうした態度に対し、今回の改修は真っ向から対立してしまう。

 

さらに展示方法等も残念だった。

人気作品ということもあり、非常に混雑しているのだ。

昔の改修前の複製もあるが、そちらは人も疎らで、そうした鑑賞環境的な面でも、改修前の方が好印象だった。

 

とはいえ、上記の感想は後の一時代の一地方の、ひいては一個人の感想にすぎない。

そんなものよりは作者の意図が尊重されるのは当然である。

むしろこの経緯により、本作へさらなる注目度が上がったとも言える。

 

脱線するが日本の美術館は混み過ぎで、椅子も少なく回遊性も低いので、しばらくしたら西洋系で海外美術館に再訪したいものだ。

この趣味の源泉は、ロンドンにある。

 

最後に本作の独自の解釈を残す。

技術的な面ではレンズを通したともされるが、それもあってか案外ピントがボケている。

同時代の写実派は写真に引けを取らない再現性を持っていたことは、本作の前の本展で確認できる。

ともすれば、印象派の先駆けとも見れるかとも感じた。

 

心理的な印象においては、まず手紙を読む位置、構図として眼前の開かれた窓が、前途洋々な未来を示唆している。

洋々は大航海時代的なニュアンスも込めた。

あるいは室内の描写に留めることで、鑑賞者の解釈性、議論の余地が担保されている。

これは類似する作家等にも言えることだ。

だからこそ、同時代にこうした構図がブームになった、当時の人たちの趣味嗜好の淘汰圧の結果とも言えそうだ。

 

最後の最後に改修前に関しては、彼女の後方の光の具合から、彼女自身に見えざる羽があるような印象に捉えられないこともないかとも感じられる。

 

 

その他の展示

話の流れでフェルメールから行くと、本作のほか、修復過程の30秒程度の動画が複数あったりしたのは、硬派な美術館展示としては珍しく感じられた。

 

また本作のほか、本展のオリジナルに対する、200年後以降の印刷も紹介されていた。

 

pytho.hatenablog.com

 

印刷に関しては、素人ながらも若干前提知識があったので、そのあたりも印象を比較できた。

同じ対象でも技法や作者により、かなり細部は異なる。

 

今回は目玉がフェルメールなものの、一点しかないこともあり、多くは主題のとおりオランダ絵画だ。

実力派な写実派が揃っている。

 

これらを全体的に見ていて思ったのは、主題を引き立たせるためか黒背景が非常に多い。

現在、履歴書の写真等で、顔に明るい印象を持たせるために白や水色の背景が好まれるのとは非常に対照的だ。

あるいは黒で権威さや厳粛さを表現したかったのかもしれない。

 

写実派の表現力は、現在の手軽に写真がとれる社会との類似性も感じられる。

もっともかかる時間やコストは異なるものの、それ以前に比べ瞬間を切り取る革命的手段が登場したことは一致している。

そうした社会環境の中での文化の進化として、トローニー、寓意性の表現が生まれた。

現在でもSNSのバズのため、実力派の写真家として、様々な要因で、簡単な写真のほかに、強いメッセージ性を持たせた表現を試みる取り組みは散見される。

 

こうした人間の飽くなき想像性が、アンチテーゼの萌芽として後の印象派につながっていったのだろう。

 

細かい点でいえば、寓意性の延長として、取り上げたテーマにも過去以上の意味があるかもしれない。

例えば出産を描いたものとか、その他女性の室内の風俗画が多い中で。

 

また寓意性と類似するが、写実性が高まったからこそ、非現実性が際立つものもある。

現実の光の具合を敢えて無視して、強調したい対象が明らかに不自然に明るくなっている。

あからさまだが、あからさますぎるわけでもなく、それでいてわかりやすい。

 

さらに細かな点では、サテンの反射するサラサラシャカシャカな質感がキレイに表現されている。

同様に令嬢と対照でメイドの質素さも表現力の高まりに比例して際立つ。

 

ほかにも個別でいくつかコメントもあるが、長くなったし割愛してしまう。

最後に背景の風車がオランダを感じさせられた。

自転車大国。行ってみたいものだ。

 

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吉阪隆正展@東京都現代美術館

去年も行ったが、企画展の入れ替わりで建築系で興味があり再訪。

 

pytho.hatenablog.com

 

タイミングは春分の日で、企画展そのものに加え、学芸員らによる以下のセッションも狙った。

 

www.mot-art-museum.jp

 

正直、建築ニワカなので、この建築家自体はここで初めて知った。

年代的に丹下健三の少し下といったところで、コルビュジェに師事しモダニズム建築を感じるところなどに親近感がある。

私自身、モダニズム建築がジャンルとして最も好きなくらいなので、今回の知れた機会は非常に貴重でありがたかった。

また丹下健三に比べれば、彼が上の世代でより権威があったからか、吉阪隆正においてはそのおこぼれ的な国家プロジェクトまではいかないプライベート寄りの大小のPJTを担当していたのかと推察した。

 

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幾何学的で合理性を感じるデザイン。

ピロティ構造は非常に特徴的だ。

 

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イタリアの美術展のビエンナーレの日本館。

これについては後述。

 

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学校の校舎・教室配置も新たな合理的視点での挑戦的な提案をしている。

学校と言えば専ら長方形の校舎が思い浮かぶ。

しかし彼はテトラポット的な要素の環状配置を提案している。

外側を除き、教室同士が相互に見れるのは面白いし、このベランダと中庭を利用すれば、構内集会や各種構内行事をユニークに合理化できる可能性も感じられる。

マクロに円形であるという点においては、Appleの新本社にも近い要素を感じる。

あるいは意地悪な見方をするなら、それこそパノプティコンにも見える。

 

しかし外側の余ったスペースが無駄であることなどから、公共の合理性追求からは逃れきれなかったか。

残念だ。

 

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丹下健三との比較は前述したが、上記のように国土論や都市計画にも言及しており、かなり関連性もあったのだろうか。

こうした点は書籍などで勉強してみたいところでもある。

モータリゼーションの時代に市街地への交通を完全に排除するのは極めて先進的だ。

 

他にも直線的な建築が多い割に、自然の原風景としての曲線を重んじている節が随所に見られる。

これは登山家などの側面もあった下記のようなマルチな側面の表出でもあるかもしれない。

建物のエッジを稜線に合わせたりしているのだ。

 

関連して人工のフランス式庭園と自然のイギリス式庭園についての言及もあり、そうした学芸員による拡張的な情報補足と、関連性の付与もまた面白さを足している。

 

さらに自宅や作業事務所の建築が、極めて狭く前者は建物部分は4*6mほどだ。

現代風なミニマリストとの親和性も高く見える。

 

冒頭には彼や親の略歴も書かれている。

それによればスイスでの平和教育など欧州の空気に幼少に触れた経験も多かったようで、そこでこうした土壌が醸成されたのだろう。

また建築、平和のほかにも、環境、哲学などへの論考もあり、裾野の広さに驚く。

 

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そして15時の整理券配布を待って、セッションに参加。

ゲストは先の日本館に過去出展したキュレーター2人。

当時のビエンナーレでの美術展示について振り返りつつ、建築に関しても少し言及があった。

キュレーターの話を聞くのも初めてで刺激的だった。

アーティストとはまた違い、チームビルディング的難しさや工期、現地調達といった現実的問題が聞かれたことは斬新で特に面白かった。

 

この話がきっかけで、イタリアは近いうちに特に行きたい旅行先だったので、ビエンナーレにかぶせるものも考えていた。

すると下記のようなツアーもあるではないか。

 

 

まあ高いのだが、社会人になったことで出せないこともないのが、少し怖いところだ。

有給も温存しているしホワイトなので事前に言えば行けそうではある。

とはいえ世界的雰囲気とかを考慮しても、決心がつきにくいところではある。

また上記プランは燃油サーチャージを含まないので、ロシアの侵略で航路を遠回りする現在、金銭的、時間的ロスも懸念事項だ。

 

最後に社会人になって分かった感じたことだが、学生の暇なうちは旅行における交通や宿の調達も節約を兼ねつつ楽しくやっていたが、社会人にもなると忙しいしそこを金の力でアウトソーシングしてしまいたくなる気持ちも分かるようになってきてしまった。

人間的にはむしろ退廃を感じつつも。

日本橋高島屋

今週は東京駅の東側に行ってきた。

まずは八重洲口から歩いていける八丁堀のお気に入りのラーメン屋の七彩さんの春のメニューから。

 

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その後、表題の通り、日本橋高島屋へ行ってきた。

目当ては下記の企画展。

 

www.takashimaya.co.jp

 

コルビュジェをはじめとして、建築家を中心としたインテリアの受賞作品が並べられていた。

また同店の家具のフロアも紹介されていた。

ここでの展示を通して、家具販売にも繋がたいところか。

うまいビジネスだ。

 

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受賞作品のジャンル・トピックとしては椅子。

一人用からソファタイプ、材質、形状など種類に富んでいて面白い。

さらにセットで証明が展示されており、個性がさらに磨かれている。

 

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解説文も秀逸だ。

上記は美術館の展示の履歴が紹介される。

美術館においては、絵画、彫像が代表的で、インテリアなどは日陰気味で、私自身あまり注目できていなかったように内省、回顧する。

 

下記は作者のキャリアが興味深い。

土木工学においては、私と同一だ。

私自身、既に土木とは一線を画する業種に労務しているが、建築寄りに近づきつつ、彼のようなキャリアを歩むのも一考に思える。

特に、ここの受賞者は王立美術院をはじめとした、特に欧州の芸大出身者がやはり多い。

私自身、第二の学位を考慮したときに、あえてデザイン系に寄せるのは、独特かつユニークで面白そうと思っている。

昨今はやりのデザイン思考的でありつつ、人間工学的な工学とのシナジーもゼロではない。

 

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受賞作品のトピックスのあとは章立てを変えて、テーマごとのインテリアがまとめられる。

これを見て、ふとどうぶつの森を思い出した。

高いがインテリアを整備することによる、QoLウェルビーイングの向上は間違いない。

専ら在宅勤務でもあるので、実用面のみならず、見た目や肌触りなどの感覚的な居心地の良さを重んじた部屋作りもありか。

とはいえ、総合職かつ子供部屋おじさんなので、全力投球はしにくい。。

 

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下記は個人的にリベラルな芸術として興味深かった。

肌色という表現は、特にリベラルな表現において特に人種問題系の観点から、忌避される傾向にある。

しかし下記の作品は、それを逆手にとってか、新たな表現を模索している。

繊細さの感覚を表出させつつ、現代の社会やそこでの問題との繋がりが強い、非古典的な現代での取り組みならではだろう。

 

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余談だがせっかく高島屋にわざわざ来たので、ファッション系もウィンドウショッピングした。

女物はいいデザインで手頃な価格が多いのに対し、男物はどれも非常にいい値段がして、現状ではほとんど手が出せないのが苦しいところだ。

個人的にこういうところにも、現代的なジェンダーロール的な問題が背後に潜んでいると考える。

これまでは男性優位の社会であったため、こうしたものの価格も、同様の重みがついていた。

しかしようやく就労環境における男女平等が達成されるようになり、かつ日本が低成長でパイの奪い合いな経済環境であることを仮定すると、これまでの男性分の取り分の半分が女性に奪われる。

これはミソジニーではない。

喜ばしいことで、女性の高額商品の市場が開かれるが、その一方で高所得男性向けの市場は縮退を余儀なくされるだろう。

また男性の中間層が溢れ出てくるだろう。

百貨店でも別の小売や職人にも、こうした社会的需要構造の変化を受け入れてもらいたい。

最も私自身、中間層男性にとどまるつもりはないが、若輩者にはまだ道半ばだ。

 

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きっと進歩

久しぶりにニュース系をまとめる。

ツイートでもいいのだが、政治系はやはり本国においては忌避されるし、見たい人が見れるここにこそっとまとめておく。

 

グーグルのおすすめニュースに下記が出てきた。くだらないし支持しないのでリンクは殺しておく。

佐藤優「もしもアメリカがトランプ大統領のままなら、ロシアのウクライナ侵攻は起こらなかった」 「ロシアが軍事介入するなら、アメリカも軍を送る」と脅せたはず
PRESIDENT Online

 

個人的には意見が異なる。

確かにトランプであれば牽制できたであろうことは認める。

ただそれでは冷戦時代と構図が変わらず、人類史としての成長が感じられない。

今はトップが弱腰だからこそ、国際的に民主化と結束がさらに強まったと感じられる。

これにより確かにウクライナ側は実害を被ってしまうが、残念で高圧的な物言いを承知で、人類の歴史の成長に必要な犠牲に思える。

そういう意味では非常に尊い

 

バイデン大統領、あるいは岸田総理もリーダシップは開戦以前から疑問視されてきた。

単純な国力としては弱体化しているが、だからこそ一票(一国)の格差が弱まった。

だからこそイギリスやフランスが、以前より存在感を増している印象もある。

 

アメリカの強力なリーダシップにより世界の警察としての国際秩序維持はありがたかったが、軍備負担やイデオロギー、影響力など様々な要素で不平等だ。

一見、後退に思えるが、新時代への前進のための準備段階だと、私は考える。

多くの王権が倒れ、各国の民主主義は西側で概ね浸透したが、国連の常任理事国にしろ国際秩序はいびつだった。

今回の拒否権の履行などについても、戦後70余年で根本的な制度として停滞していたものを見直す機会になったのはプラスだ。

そういう意味でウクライナにとどまらない世界的な民主化を、他でもない共産圏の寵児のプーチンが進めてしまったのは皮肉だ。

 

 

新型コロナ: 仮想オフィスで雑談、スタートアップのエクステンシブル: 日本経済新聞

 

こういうサービスが流行っている。

弊社はSLACKすら未導入で、こうしたツールによるコミュニケーション文化の見直しは弱い。

しかしリモートワークの流れが不可逆になった今、誰が生き残るかという問題はありつつも、こうしたサービスが普遍化していくだろう。

というのも私自身の経験はないが、超デジタルネイティブ世代のZ世代以下は仲のいい人と寝る間含め電話を繋ぎっぱなしという話を散見する。

同世代でも恋人同士とかではたまに聞いていたが、中高生は友達同士でやる人もいるらしい。

確かにここまでネットサービスや通信品質が高水準になれば、技術的にも人間的にも理解はできる。

そういう世代を鑑みても、時間はかかっても、これらが「標準化」されるのは必然的な流れだ。

上記の記事では収益性の問題かビジネスが主戦場だが、サービスシナジーや利用頻度などユーザー視点で見れば、学校などの若者向けのコミュニティこそ相応しそうにも思える。

Beat TikTok足り得るかもしれない。

まあここまで日常が切り抜けるようになれば、最終的には仮想現実か、生配信の方向性しか現状の蓋然性の延長からは想像できない。

 

 

アマゾンからの「解放」: 日本経済新聞

 

要はD2C(Direct to Custmor)の話だ。

確かにネットにおいて、そうしたサービスが増えてきた印象もある。

アマゾンや楽天の掲載は、チャネルが増える一方、手数料のマージンが差し引かれるため、開発力さえあれば忌避されるのは当然の流れだ。

これを見越してか、両社とも固執せず、別事業で事業継続を既に模索しているのはさすがだ。

 

私も既に書いたが社内研修にて、Webアプリの開発演習をした。

さすがに決済まわりまで手は回っていないが、こうした部分は別途サービスでコスパ良く構成されているのだろう。

そういう意味ではAWSを通して、アマゾンは事業継続していると言えるのかもしれない。

 

また自社でサービスを持つことで、これまでプラットフォームに握られていた顧客や勾配に関する情報、ビックデータの収集、活用が簡単になる。

これによりマーケのさらなる高度化を通して、我々顧客への還元を期待したい。

 

 

youtu.be

CADは設計のDXで合理化が図れるほか、データをメタバースにそのまま転用できる。

もっとも若干の色付け等は必要だろうが。

 

 

中学受験の塾代、3年で「250万円」 世界と隔たる暗記型: 日本経済新聞

 

馬鹿な話だ。

教育関係者と親というプレイヤー両方ともだ。

前者は本質的な目が必要だ。

もっともその評価が難しいところではあろうが。

これはもう割とどうにもできないというか、話が尽きないところでもあるし、既に昔ベースながら書いたので、そこに任せよう。

 

pytho.hatenablog.com

 

今回の主題は後者だ。

バカなゲームだからといってそれに乗る必要はない。

親が子にいい将来を送らせたいのは当然だが、それに教育は必須ではない。

持論だが。

もちろん教育水準が高いことは望ましい。

しかしこの教育は国語、数学、理科、社会、英語、その中でも特に予め作られた問題を、ここでは意味しない。

これでは受験に受かっても、社会で応用できないからだ。

だからこそ、多くの大学で重視される教養が重要なのだ。

これは通塾ではむしろ相対的に低下する能力だ。

 

私がもし幼少時代をやり直せるなら、ピアノを通した音楽や、立体工作が好きだったのでレゴや木彫り職人のようなところでの体験授業などを多く受けたい。

個人の嗜好で芸術分野に偏り気味だが、要はそうした人間的深み、あるいは子供ということを加味すれば、世界の広さを体験させるべきだ。

そういう意味ではやはり博物館、美術館も有用だ。

最近のマイブームのバックグラウンドには、こうした人生経験に対する反動・カウンターの側面も否定できない。

 

pytho.hatenablog.com

 

英語なんかは弊害が如実に出ている。

塾で教わったからといって、それが受験用に局所最適化されているせいで、本来的な目的である英語でのコミュニケーションができないのだ。

英語をやってもいいが、塾で問題集や単語帳を開くのではなく、ネイティブと英会話すべきだ。

 

また塾に類似して、目先の効率を重視、すなわちエンジニア就職を見越してか、プログラミング教育も流行っている。

ロジックを若いうちに掴んでおくのは合理的な側面があるが、型にはめ過ぎないことが肝要だ。

基礎だけ教わったら、あとはPCを自費で買って、好きにさせればいい。

そこでゲームでも、アプリでも作らせてしまえばいい。

 

ことこの分野に限って言えば、このような能力さえあれば、高卒でも戦える。

まあプログラムの高度化には、大学数学のバックグラウンドを持っておくべきだろうが。

しかしその専攻も別に東大などの上位校である必要性はないわけだ。

センスさえあれば、いくらでも逆転できるから、教養というセンスを以下に磨くかだ。

ロジックは皮肉にも赤本がある意味いい思考訓練になるかもだが。

 

要は子供の創造力を殺さないことこそが最も肝要な教育方針なのだ。

教育の根本的な目的を見失わないことだ。

嘆かわしいことに、学校ですら、その態度は危なくなっているが。

子供も持っていないし、持論だが。

 

あと塾が格好の金儲けだし、子供自身がレッドオーシャンで苦しむよと。